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Interview 柳葉敏郎

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家族が笑えばギバちゃん笑う

 「家族にほめられたいから」。柳葉敏郎(44)に俳優活動の原動力を聞くと、照れることなく、間髪入れずにそう言った。デビュー間もない20代、俳優を志す自分を故郷から送り出してくれた祖母を喜ばせたかった。30代は、祖母の他界で目標を一時見失いかけた。結婚して、愛娘を得た今、迷いはなくなった。家族の言葉を支えに、胸を張り、どんな役にも挑んでいける。

 

小3で父失い

 「かっこよかったよ」。公開中の主演映画「容疑者 室井慎次」を見終えた長女さくらちゃん(5)の一言を聞いた途端、柳葉は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。隣にいた裕子夫人(32)からも「よかった」と声を掛けられた。大ヒットシリーズ「踊る大捜査線」から、柳葉を主人公にした作品として誕生した映画。プレッシャーと戦いながら、撮影現場を引っ張った。2人の言葉を聞いた瞬間、すべてが報われたと感じた。

 「本当にうれしかったですねえ。これでもういいやって。それ以上、何もいらない。家族が喜んで楽しんでくれたらそれでいい。それが大事。バカですかね、オレって?」。

 仕事が自分のためであることは、承知している。家族にほめられ、励まされることは、ものごとに対して動きだすきっかけなのだ。そんな思いの原点は、高校卒業後に俳優を志した自分を、快く故郷秋田から送り出してくれた祖母の存在だ。小学3年生の時、父親を亡くした。母親は仕事で忙しく、祖母が両親のように面倒をみてくれた。大学受験に失敗し、予備校に通っていた時、新聞で劇団員の募集広告を見つけた。将来にモヤモヤした感じを抱いていたこともあり、興味がわいた。劇団には受かったが、母親は反対した。

 「とんでもない話だと。田舎ですから公務員や教員になってほしかったのでしょう。『ボーナスのもらえる仕事をしなさい』と言われましたから(笑い)」。

 ところが祖母の言葉が母親の気持ちを動かした。「こいつが自分の人生を決めたのはこれが最初だろう」。上京する日の朝、祖母は言った。「自分で決めてここの敷居をまたぐのだから、どうなったら帰って来られるか分かるね」。

 「快く送り出してくれただけに、あの言葉は重かったですね。中途半端では絶対に帰れない。ばあちゃんに認めてもらわなきゃいかんなと思いました」。

 東京で働く高校の同級生の社員寮に潜り込んだ。エキストラも増え始め、アルバイト先を東京・築地の佃煮販売店から、飲み屋に変えた。1人暮らしも始めた。上京して3年が過ぎた時、飲み屋のマスターから芸能事務所を紹介された。所属していた同世代の若者たちとパフォーマンス集団「一世風靡(いっせいふうび)」を結成した。渋谷で路上パフォーマンスを披露していたら注目された。ドラマ出演の話が舞い込み、音楽活動も始めた。無我夢中の20代だった。

 「周囲には特に言いませんでしたが、頭の中には、ばあちゃんが喜んでくれているか、見て楽しんでいるか、ほめてもらえるだろうかという気持ちが常にありました。自分が頑張ることができる原動力でした」。

 バラエティー番組「欽ドン!」で茶の間の人気者になった。グループとしてシングル「前略、道の上より」もヒット。映画出演して日本アカデミー賞新人賞も受賞した。祖母はいつも喜んでくれた。初主演映画「蛍」公開の89年、祖母は他界した。柳葉は28歳だった。

 「オレはこれから何のために、誰のために仕事をすればいいのかと迷いが生じました。自分の周りが見えなくなり始めた。どんどん自分が弱くなっていくのが分かりました。でも時間は止まらない。もうほめてくれる人はいないのに、仕事はどんどんくる。正直つらかったですね」。

 

3日間の看病

 グループではなく、自分自身を認めてもらうため、一世風靡も脱退した。不安定な時期は続いた。窮地を救ったのは、新しい「家族」だった。33歳になった94年春。ゴルフのフジサンケイクラシックのプロアマ戦に出場。最初のホールで待機中に、女性ファンから手紙を受け取った。あこがれの思いがつづられていた。

 「いつもはそんなことしないんだけど、電話をしてしまいまして。理由? それが分からないんですよね本当に(笑い)」。

 ひょんなことから、裕子夫人との交際が始まった。交際2年目。熱海在住の裕子さんが交通事故で入院した。北海道ロケから戻った柳葉はその足で病院に直行した。オフは3日間。病院に泊まり込み、看病に専念した。

 「3日間ずっと一緒にいたことで、いろんな感情が深まりました。愛し続けたいと思わせてくれる存在なんだと確信したんです。尊敬もした。この人のために仕事ができるかもと思えたんです」。

 交際4年目の97年に結婚。3年後には長女を授かった。心の支えとして自分をほめてくれる存在を得た柳葉から、心の迷いはすっかりなくなった。幼いころに父親を失っているだけに、娘に対する愛情は深い。生後すぐに、無理やり仕事を休んで、夫人と一緒に1カ月間面倒を見続けた。

 「言葉も通じない娘を相手に、カミさんと2人で一緒に頑張った。今や人格を持った1人の人間になりましたが、あの1カ月間は父親として大きかった。愛していることを自分で確かめられましたから」。  娘は3年後に、自分が父親を亡くした年齢になる。

 「オレが父親にしてもらえなかったことを、常に心の中に用意して待っていようと思います。何かあった時に助けてあげられる父親になりたいですね」。

 

戸惑い感じて

 結婚した97年、フジテレビの連続ドラマ「踊る大捜査線」に出演した。警察機構内部をユニークに描いた作品として人気を集めた。織田裕二演じる所轄勤務の青島刑事とことごとく対立する警視庁の刑事部捜査1課の管理官、室井慎次を演じた。寡黙で頑固。自分の正義を貫くためには信念を曲げない一本気な男。それまで演じたことのないキャラクターだった。収録が始まってから2週間後、プロデューサーに直訴した。

 「戸惑いがあって、憂うつな気持ちになってしまった。これからもちそうにないので『殉職させてください』とお願いしたんです(笑い)」。

 室井は警察機構の改革を願う熱血漢でもあった。ドラマの中では上層部の理不尽な指示と、現場の刑事たちのはざまに立って苦しむ場面も多かった。

 「室井を演じてうっぷんがたまったのは、それは室井が歯がゆく思っていることをそのまま受け取っていたからかも知れないと何となく思いまして。じゃあ、自分の感情をそのまま出せば、室井の気持ちを表現していることにつながるかも知れないと。迷いがなくなりました。同化しちゃったんですね、室井と」。

 その後スペシャルドラマが3本放送され、2本の映画は、邦画の観客動員記録を塗り替えた。柳葉演じる室井も人気キャラクターとして定着した。2作目の映画を撮り終えた後、あるゴルフコンペで、かつて管理官だった男性と偶然一緒にコースを回る機会があった。その男性から「室井と同じ気持ちでした」と声を掛けられた。ホールアウト後、男性の夫人から「夫がやりたかったこと、思っていたことと重なって、見るたびに涙が出てくるんです」と言われた。

 「架空の人物ではないんだなと確信しました。演じていて室井に対して自分が感じた戸惑い、歯がゆさは間違っていなかったと勇気づけられました。今回、映画を引き受ける大きなきっかけになりました」。

 一時は迷いながら、8年間、同じキャラクターを演じ続けた。今は「自分の人間形成に強く影響している」と胸を張って言う。主演映画まで誕生した。

 「役者冥利(みょうり)です。オレ自身も『踊る大捜査線』シリーズのファンですから、また何らかの形で見たい。俳優の立場から言えば、室井はいつでもいけますよ」。

 家族にほめられたくて、一心不乱に俳優の道を突き進み、かけがえのない役にも出合った。今後の俳優生活も充実し続けるはずだ。

 

 ◆柳葉敏郎(やなぎば・としろう) 1961年(昭和36年)1月3日、秋田県生まれ。高校卒業後に上京して路上パフォーマンス集団「一世風靡」に参加。81年NHK朝のテレビ小説「まんさくの花」で俳優デビュー。83年「欽ドン!」で人気者に。84年に柳葉を中心に「一世風靡セピア」を結成、シングル「前略、道の上より」がヒット。87年映画「南へ走れ海の道を!」で日本アカデミー賞新人賞を受賞。89年、一世風靡解散。91年映画「さらば愛しのやくざ」でブルーリボン助演男優賞を受賞。97年4月に裕子夫人(32)と結婚。97年放送スタートのフジテレビ「踊る大捜査線」に出演。171センチ。血液型O。

 

LINK: http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2005/sun050828.html

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